オンラインでチケットや宿泊、イベントを予約する――。
私たちの生活の多くは、今やデジタル上で完結します。日本の鉄道や航空、ホテル予約サイトも機能が充実し、便利なサービスが次々と登場しています。
しかし一方で、
「初めてログインするのに時間がかかる」
「登録項目が多く、どこまで入力すればいいのかわからない」
と感じた経験がある人も少なくないはずです。
これは新幹線に限った話ではなく、多くの国内サービスが抱える“便利さの裏の複雑さ”ともいえます。
そんな中、南アジアのスリランカ鉄道が提供するオンライン予約サイトを開いてみると、驚くほどシンプルな体験が待っています。出発駅と到着駅、日付を入力して座席を選び、支払いを済ませるだけ。
わずかな操作で予約が完了する、極めて直線的なUX(ユーザー体験)です。
なぜ、インフラも人員も限られる国で、これほどまでに“迷わない設計”が実現できたのか。
その背景には、先進国が見落としがちな「機能を増やさない勇気」がありました。
【背景】“多機能=便利”が生むジレンマ
日本の多くの予約サイトは、ユーザーの利便性を追求するあまり、機能が増え続けています。
複数の路線や運賃体系、ポイントサービス、クレジットカード、アプリ連携など――。
どれも便利な機能ですが、統合が進むほど操作が複雑化するというジレンマが生じます。
「便利さ」を実現するはずのデジタル化が、結果として“操作の負担”になっているのです。
スリランカ鉄道の予約サイトは、そんな構造的な課題とは対照的に、“できること”をあえて最小限に絞り込んでいます。
目的はただひとつ――「チケットを買う」ことを、最短距離で終わらせること。この“引き算の設計思想”が、結果的に圧倒的な使いやすさを生んでいるのです。

【構造の違い】スリランカ鉄道が実現した“わずかな操作で完結”UX
一方のスリランカ鉄道公式サイト(https://seatreservation.railway.gov.lk/)は、機能を極限まで削ぎ落とした構成になっています。
| 項目 | スリランカ鉄道 | 一般的な予約サイト |
| 入力項目 | 出発駅・到着駅・日付・人数乗客情報など | 会員情報+カード情報+認証項目多数 |
| 画面遷移 | 検索 → 座席選択 → 支払い | ログイン → 検索 → 座席 → 決済 → 確認 → 受け取り |
| 会員登録 | 基本不要 | 基本必要 |
| チケット発行 | 即時PDFメール | アプリ・ICカード・窓口など 複数方式 |
設計思想は非常にシンプルです。
「誰でも一度で予約を完了できる」ことを最優先にしており、通信環境が不安定でも途中で落ちない軽量仕様。
スマートフォンでも軽快に動作し、外国人旅行者でも直感的に理解できるUIです。重要なのは、制約を前提にした設計という点です。
スリランカでは通信回線の遅延やデバイス性能の低さを想定しているため、「落ちない・迷わない・止まらない」UXを最小限の画面で実現しています。
【設計思想】「足し算のDX」から「引き算のUX」へ
このサイトが示す最大のポイントは、“足し算ではなく、引き算で価値を生む設計”ということです。
多くの企業は、デジタル化を進める際に「機能を追加すること=改善」と捉えがちです。
しかし実際のユーザー体験では、「選択肢が多いほど迷う」という逆説が生じます。
便利さを追求するあまり、利用者の意思決定が遅くなり、結果的に離脱を招くことも少なくありません。
スリランカ鉄道の設計は、まさにこの“UXの本質”を体現しています。
- ユーザーの行動目的を1つに絞る(=チケットを買うだけ)
→ 多機能化ではなく、目的達成のシンプルさを最優先。 - 最短経路で完了できる動線を設計
→ ページ遷移を最小限にし、「迷わない体験」をつくる。 - 装飾・説明を最小化し、決断を妨げないUI
→ 色やテキストを控えめにし、操作を直感的に。
この考え方は、デジタルミニマリズム(Digital Minimalism)と呼ばれるアプローチに通じます。
“削る設計”が、ユーザーに「快適さ」を提供するというひとつの思想になり得ます。
もっとも、スリランカ鉄道には多機能化に必要なリソースが そもそも存在しないことにより「制約によるシンプル化」に至ったという見解もあります。
しかし、限られたリソースの中でも明確に使いやすさを追求した様子が感じられます。

「削る設計」は企業競争力をも高める
“引き算のUX”は、単に見た目をすっきりさせるデザイン手法ではありません。それは、ユーザーの行動コストを最小化し、意思決定スピードを上げる戦略的設計です。
つまり、UXの洗練度がそのままビジネスの生産性や顧客ロイヤルティに直結する。実際、近年の成功企業の多くは、「やらないことを明確にする」ことで差別化しています。
- Netflix:トップ画面で“迷わせない”選択設計
- Apple:ボタンや説明を減らし、感覚的操作に集中
- 無印良品:機能を削ぎ落とし、ブランド体験を統一
これらはすべて、“少ないほど伝わる”UX戦略です。
スリランカ鉄道の3ページ設計は、その思想を公共交通という最も制約の多い領域で実現した好例といえます。
【示唆】制約が生むイノベーション
興味深いのは、スリランカのUXが“発展途上ゆえの制約”から生まれている点です。
通信環境・開発予算・人材リソース――あらゆる条件が限られている中で、「どうすれば確実に使えるか」だけに集中した結果、究極に使いやすい設計になりました。
高価な開発ツールも、大規模なユーザーテストもない。だからこそ、現地の利用者が本当に必要とする「最低限の操作」と「確実に動く仕組み」に焦点が絞られたのです。
たとえば、通信が途中で切断されても予約情報が保持されるよう設計されている点や、英語を母語としない利用者でも理解できる単語・ボタン配置のシンプルさなどは、まさに「環境から逆算した設計思想」の成果です。
一方で、日本のように多要素を統合できる環境では、「誰のための機能か」が見えづらくなり、システムが肥大化しやすい。
ユーザーよりも企業側の要件――セキュリティ、CRM、ポイント連携、提携カード――が先に立つ結果、“便利なはずの仕組みが、利用者にとっては複雑になる”という現象が起こります。
この違いは、テクノロジーの進歩度ではなく、「焦点の明確さ」にあります。
制約があるからこそ、選択肢が整理され、目的が研ぎ澄まされる。言い換えれば、「できないこと」がデザインの精度を高めるのです。
この構図は、鉄道予約に限らず、あらゆる業界に通じる示唆を持っています。
たとえばスタートアップや地方自治体のDXプロジェクトでは、限られた予算・人員・時間の中でサービスを立ち上げることが一般的です。しかし、リソースが限られるからこそ、「最小限で最大の価値を生む仕組み」を設計する発想が生まれます。
スリランカ鉄道のUXはまさにその象徴であり、“制約を恐れず、制約を設計に転化する”ことでイノベーションが生まれるという逆説的な教訓を示しています。
【新規事業開発への示唆】制約を“設計の起点”に変える
スリランカ鉄道のUX事例は、単なる海外のデジタル設計の話ではありません。
新規事業やサービス開発の現場でも、同じ構造が起きています。
新しい事業を構想する際、「ユーザーにできることを増やす」「多機能にして差別化を図る」という“足し算発想”に陥りがちです。しかし、多機能であることは価値ではなく、むしろリスクにもなります。
初期フェーズでは、顧客の行動を複雑にし、開発・運用コストも膨らませてしまう。その結果、肝心の価値検証(PoC)が長期化し、事業化の判断が遅れるケースが少なくありません。
スリランカ鉄道の事例が示すのは、「制約を恐れず、それを設計条件として活かす」という姿勢です。
新規事業においても、次の3つの観点で応用できるでしょう。


1. “制約リスト”から発想を始める
多くのプロジェクトは「できること」ベースで要件を出しますが、あえて「できないこと」や「やらないこと」を最初に整理する。それによって、プロジェクトの焦点が明確化し、UX・UIの核心も浮かび上がります。
→ 制約を“障害”ではなく“設計ガイドライン”として扱う発想。

2. “最小価値体験(Minimum Viable Experience)”を定義する
MVP(Minimum Viable Product)ではなく、「ユーザーが最小限で価値を感じる体験」を先に描く。
スリランカ鉄道の3ページUXのように、「完了までの最短距離」を設計すると、PoC段階での学びも速くなります。
→ MVPよりもMVEを意識することで、初期UXの磨き込みが早まる。

3. “機能を足す会議”より“削る会議”を設ける
新規事業の設計段階では、「何を追加するか」よりも「何を削るか」を議論する時間を意識的に確保する。
削ることで、リソースが集中し、メッセージが研ぎ澄まされる。
→ 「足さない勇気」をチームで共有することが、UXの質を左右する。

スリランカ鉄道のUXは、限られた環境の中でも「最も多くの人が確実に使える」形を突き詰めた結果です。新規事業開発の現場でも、同じ問いが必要です。
“誰にとっても確実に価値が届く最小構造は何か?”
制約を前提に設計することは、創造の自由を狭めるどころか、むしろ本質を浮かび上がらせるレンズになります。それが、リソース制約や短納期の中でも成果を出すチームの共通点です。
【この事例から見えるポイント】
スリランカ鉄道の“3ページ完結UX”は、単なる海外の成功例ではなく、「制約を起点に発想する設計思想」の重要性を示しています。
そこから得られるビジネス上の示唆は次の3点に整理できます。
- UXは「何を足すか」ではなく「何を削るか」で決まる
→ 多機能化よりも、ユーザーが“迷わず完了できる”体験を優先すべき。
「やらないこと」を明確にすることで、UXの焦点とブランドの一貫性が生まれる。 - 制約を前提に設計することで、体験の本質が研ぎ澄まされる
→ 不便さを克服しようとする過程で、本当に必要な価値が明確になる。
環境制約を“設計ガイドライン”として扱うことが、創造性を引き出す鍵になる。 - “完了までの距離”を短くすることが信頼につながる
→ 操作回数や画面数を減らすことで、利用者の心理的負担が軽減され、
結果として「使いやすさ=安心できるサービス」というブランド信頼を形成する。

【まとめ】
スリランカ鉄道の予約サイトは、限られたリソースと制約の中で生まれたにもかかわらず、結果的に“世界水準の使いやすさ”を実現しています。
その背景にあるのは、「誰にでも確実に使えるようにする」ことへの一点集中。この“焦点の明確さ”こそが、複雑化する日本のDXがいま失いつつある視点です。
機能を積み上げるのではなく、目的を絞り、体験を軽くする。
それが、これからのデジタル設計に求められる「引き算の戦略」であり、制約の中にこそ革新が宿るという、スリランカからの静かなメッセージなのではないでしょうか。


